吹劇 第14弾  


jupiter  〜人工知能AI   人間であることの意味


 


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全知全能の神 人工知能AI 誕生


人類と人工知能AI


不老不死


自然


不老不死の悲劇


終わりがあることの意味



輪廻  宇宙





人工知能AIにより不老不死を手に入れた人類。



老いることのない肉体。尽きることのない命。人類が追い求めた不老不死。それは夢ある未来の始まりではなく悲劇の始まりであった。



終わりがあるからこそ私たちは様々なことを真剣に考える。自分自身と向き合える。愛を育む。人の悲しみを自分の悲しみとして想像し共有できる。


全ては終わりがあるからこそ。










終わりがあることの意味を問う第14弾  吹劇。

そこに人間としての意味がある。

モチーフ曲はホルスト惑星より木星。


乞うご期待。






吹劇も第14作品目となりました。人間の根源的なテーマを高校生等身大で描き続けることの面白さに取り憑かれ、早いもので14年になります。多くの才能ある方々のお力添えの元、毎年、無の状態から作品を創り出す喜びと幸せを感じさせて頂いております。ありがとうございます。






第36回 定期演奏会

12月22日 日曜日

昼の部 夜の部 船橋市民文化ホール


12月25日 水曜日

昼の部 夜の部 習志野文化ホール




今年度は4回公演となります。




精一杯演奏致します。


是非、お越しください。

お待ちしております。

稚拙極まりない教師による教師いじめが問題視されている。


テレビから流れる映像を観て目を疑った。


程度の低い人間が教師をしていることに対し世の批判が集中している。


当然のことである。


私も呆れて物も言えない。




こんなにも精神的に幼い大人が子どもたちに「みんな、仲良くしようね。人をいじめては駄目だよ。」と言っているかと思うと嫌悪感を超え笑ってしまう。

悲劇を通り越し喜劇である。




が、しかしだ。

テレビでは、いつもお出になるコメンテーターが同じことを述べている。「こんな人が学校の先生なんですか?!」「学校って狭い閉鎖された空間だからね。」


そんな中、尾木ママは「教師間のいじめは今に始まったことではありませんね。以前から述べていますようにどこの学校にもあります。私が現職の頃も行われていました。」と述べられていた。




だが、誰一人こう述べられるコメンテーターの方はいらっしゃらなかった。


「これって学校だけの問題ではないでしょう。確かに子ども達にいじめはいけないことだと指導する立場の教師間のいじめは極めて重大な問題ではあるけれど、いじめのない世界ってありますか?」

「ここ◯◯テレビ局でもあるでしょうし、隣の◯◯会社でもあるだろうし、これをご覧になられている視聴者の方々が所属されている所でもあるのではないでしょうか。

いじめ皆無の学校などないだろうし、今こうして私が話している間にもいじめで苦しんでいる方はいらっしゃる。

いじめはいけないではなく、なぜ?私たちはいじめをしてしまうのか、その根本的なことを考えなければならない。

今回の問題も、いじめはいけないと指導する立場の人間がいじめをしていたから悪いのではなく、我々人間社会から消えることのないいじめの正体を考える必要があるのではないのか。」

と、述べられるコメンテーターいない。




私たち人間。

絶えず自分と人を比べている。比べては自分のポジションを確認する。

集団の中で一番下は嫌である。それは誰もが同じ。下にいるより、上の方がいい。かく言う私も下より上がいい。


問題は集団の中で自分が下にいると、感じた時にどうするかだ。


以前にも書いた。


だいたい四つのパターンに分けられる気がする。


自分より上の者の足を引っ張る。悪口を言ったり、弱点や少しでも悪いところを探し攻撃する。いじめへと移行する可能性大。

自分より下の者を探す。これもいじめに移行する可能性大。

努力する。理想形

どうせ自分なんてと開き直り、諦める。.②に移行する可能性あり。怖い。



と考えると、いじめへと移行するものの方が多い。決していじめは特別なことではない。むしろ、いじめがない方が特別と考えた方が妥当である。なかなか③のようにベクトルが自分に向かうことは難しい。なぜなら、私たちは人のせいにした方が楽だからだ。







自己肯定も深く関与している。と考えられる。

親から丸ごと認めてもらえていない。

友人から、周囲から認めてもらえていない。などなど。

自己否定がいじめへと繋がっていくことも十分に考えられる。



特に日本人は自己肯定が低いと言われている。なぜなのだろう。学校教育、家庭、社会そのものの在り方に問題があるのだろうか。











市船吹奏楽部にいじめはない。

トラブルは1年中絶えることはないが、いじめはない。と言い切れる。

なぜ?ないのか?と考えてみた。


いじめとトラブルは紙一重の所はあるが決定的に違う所がある。

いじめは見えにくい。

トラブルは見えやすい。

いじめは見えないゆえに解決策を見出すことが非常に難しい。

トラブルは見えるので解決策を見出せる、

しかし、トラブルは見て見ぬ振りをしていると、いじめに移行する可能性がおおいにある。もしかしたら、最初はいじめではなくトラブルだったが、周囲が見て見ぬ振りをしているうちに見えないいじめへと移行したと考えられる。


ということは私が気付いていないだけで、市船吹奏楽部の中にもいじめは存在するのか??いや、存在していないと思われる。



では、なぜ?市船吹奏楽部にいじめが存在していないと言い切れるのかと言うと、


この十数年の中で培われた市船吹奏楽部の空気感にあると考えられる。それはトラブルに対して見て見ぬ振りをしないという空気感である。

トラブルが起きると、必ずアクションを起こしてくれる生徒がいる。アクションを起こしてくれるので、唯一の解決策である話し合いの方向性を考えることができる。これを日々積み重ねているので、トラブルが起きたら話し合うという空気感が市船吹奏楽部日常の中に流れている。



文句たらたら。不満は絶えない。トラブルも日常茶飯事。だが、大きな問題になる前に必ずアクションを起こす生徒がいつの代にも必ずいた。


ここが大きい。








先日、音巴たちの代のある卒業生が遊びに来てくれた。

その時、進学先での酷いいじめに遭った話を聞いた。

「市船吹奏楽部にいると、こんな世界があったことすら忘れていました。集団に無視され、嫌がらせをされました。夏の頃がピークでした。今はまた別な子からの嫌がらせが半端じゃないんです。でも私は負けません。」とのこと。

話の内容から、その子に対する嫉妬であることは間違いない。つまり、集団の中で下は嫌という私たちの根本から出た①のパターンである。自分よりも上の者を悪く言う。それがいじめへと移行した類いである。

その子は如何に市船吹奏楽部の空気感、環境が大事なものであるかを痛切に感じたという。そう話すのは、この子だけではない。多くの卒業生が異口同音のことを言う。





世の中が異常なのか。

市船吹奏楽部が異常なのか。




私は世の中が異常なのだと考える。



自己肯定に根差した学校教育つくり。


トラブルは話し合いで解決していくと言う強い姿勢を小学校から高校までの間に共に考えていく学校教育こそが必要。いつまでもつまらない偏差値教育などしている場合ではない。



今回の教員間のいじめ問題も、トラブルを見て見ぬ振りする私たち大人の空気感が作り出したものなのだろう。


コメンテーターが偉そうに「教師として恥ずかしいことですね。」などと言っても何も変わらない。今、こうしている間でもいじめは様々な場所で起こっている。



トラブルだらけの市船吹奏楽部。しかし、いじめはない市船吹奏楽部。文科省の方々に見ていただきたい。



集団の中で、私たち人間、一番下は嫌。


少しでも人より上がいい。


妬み嫉みの塊の私たち。

自分の都合最優先の私たち。


だから

「人の不幸は蜜の味」という言葉が生まれた。


①でもなく、

②でもなく、

④でもなく、

どうしたら③へと自分自身にベクトルが向いていくのか、そういう考えのもと、日本の教育を行いたい。



そういう国つくりをしたい。


最も肝心な経済が今以上に発展すると思うのは私だけ?

国の根幹は経済。

金がなければ、国つくりとも言っていられない。

が、自己肯定の多い国民、そして国家の方が経済も発展するのではないのだろうか。



こういう国つくりをしていかない限り、10年後も、50年後も、コメンテーターは同じコメントをしていることであろう。



綺麗事でも、絵に描いた餅でもない。


現に市船吹奏楽部が存在している。



















また瞬く間に1週間が過ぎてしまいました。


毎日ブログを書こうと思いつつ


台風被害のこと、

教師が教師を虐めた稚拙な行為、

あと2ヶ月しかない美咲たちのこと、

今年の吹劇について、

白内障で楽譜が見えず定期演奏会曲の合奏で苦労していること、

名古屋を朝日新聞のデジタル版で拝聴させて頂いて、


etc


お伝えしたいこと、書きたいことが山ほどあるというのに授業を行い、部活をし、帰宅すると、すぐに眠くなってしまう困った奴です。どっと疲れが溢れ出てバタン。爆睡。

以前は朝6時にパッと目が覚め、猪の如く学校へ向かったのですが、今は起きられないトド。あと1年で還暦。


しかし、今の還暦、還暦過ぎの方々、私が若い頃には考えられないほどお元気。おじいちゃんという言葉とは無縁の方々ばかり。逞しい!!

還暦のせいに出来ないー!!!!

還暦過ぎの方々を尊敬します、心より。


また昔と違い、還暦過ぎても働かなければならないこの現実。隠居は75歳以降と言われる昨今。

甘ったれたこと言っていられません。









名古屋全国大会をダイジェスト版で聴かせていただきました。全てを聴いている訳ではないのでわかりませんが、とにかく中学の部も高校の部も上手い!スクールバンドの可能性を最大限引き出されている指導者の方々にただただ脱帽。ここに金、銀、銅を付けることはコンクールである以上仕方ないことなのですが、審査員の方の立場になると、相当悩まれると思われます。


そもそも芸術を審査するなど出来るようで出来ないことです。

芸術に定義はありませんから。


それを証明するかのように吹奏楽コンクールは芸術とどんどん乖離した世界へと突き進んでいることは否めない事実です。

恐らく多くの審査員、指導者が痛感されていると思います。痛感されながらも突き進む以外ないことも十分過ぎるほど理解されていらっしゃると思います。



フィギアスケート、体操の世界では芸術点より誰が見てもハッキリとわかる技に対しての点数が勝敗を決めています。それは吹奏楽の世界でも同様のことが起きています。音程、リズムの正確さ。縦の線が崩れない安定感。そういう誰が聴いてもわかる点が勝敗を決めることになるのは、当然の結果なのだと思います。


それを芸術と呼ぶのか。それとも吹奏楽コンクールは芸術とは無関係の世界なのか。この問題は名古屋に出られている指導者の方々が一番わかっていらっしゃると思います。わかりながら敢えてそうされているのだと思います。特に音楽大学を卒業された方は抵抗感を持ちながらも割り切っていらっしゃると思います。


フィギアスケートの世界が、体操の世界が、そして吹奏楽コンクールの世界が芸術というあやふやな感覚的なものではなくハッキリとわかる技術力へと突き進んでいったのは至極当然の結果なのでしょう。それは審査員のせいでも、指導者のせいでもなく、芸術性あるものを競技にするということが、そういうことなのでしょう。

差がつく明確なものは、あやふやな感覚的芸術性ではなく、ハッキリとわかる技術です。



コンクールに出る以上、銀賞よりは金賞、金賞よりは代表と思うのが自然な感情ですから。結果、その自然な感情がここまでの技術力を生み出したのでしょう。それに応える子ども達の無限の力。これは驚き以外の何ものでもありません。



吹奏楽コンクールを音楽コンクールではなくサウンドピッチ正確コンクールと揶揄される方は多いですが、揶揄することは簡単なことです。

音楽を競技にするとは、こういうことなのだと思います。


この現象は吹奏楽コンクールを消し去らない限り解決されることはないと私は考えています。


ですが、吹奏楽コンクールにより、または各種コンクールにより、子ども達の技術が驚嘆と呼ばれるほど向上したことは間違いのない事実です。





先日、幕張総合高校、芸大を卒業された古谷さんが、なっなんと!ベルリンフィルハーモニーに入団されることが決定したと聞きました。管楽器奏者としては日本人初の快挙。彼は船橋市の前原小学校。その時からファゴットの神童と呼ばれていました。彼の才能と努力がこの結果を生み出したことは間違いありませんが、コンクールがここに大きく関わっていることもまた事実だと思われます。幕張総合高校で素晴らしい指導者に出会ったからこそ、今日の彼が存在しているのでしょう。あの長生淳さんの「紺碧の波濤」のファゴットソロに、私は会場でひっくり返りました。こんなにも上手い高校生がいるのだと、しかもよく見れば小学校から知る古谷さん。部活動がなければ、コンクールがなければ生まれていません。彼がファゴットと出会うことすらなかったと思います。




どんなことでも必ず良い面と悪い面があります。

悪い面だけを見て、簡単に批判するのではなく、良い面にも目を向けて考えることが大切なことなのだと思います。




この夏。

コンクールに挑戦された日本中の学生の皆さん、そして指導者の皆さん、お疲れ様でした。


名古屋で金賞という頂点を手にした皆さん、おめでとうございます。






来年、もちろん市船はコンクールに出ます。

もちろん名古屋を目指します。



良い面と悪い面をしっかりと自分の中で考え続けながら。











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