
親父会

先日、私は白内障の手術を行った。手術はあっという間に終わった。濁った水晶体を私の眼球から切り離し、人工の水晶体を瞳の中に考えられないスピードで嵌め込んだ。白く濁り見えにくかった世界が今では鮮やかに見えている。私の身体には人工の水晶体が埋め込まれている。私は人造人間となった。
人工知能AIの進化は、もはや誰にも止めることは出来ない。近未来、人工知能AIは人類の知能を追い越すと言われている。人工知能AIの進化は、私のこの水晶体のように加齢と共に古くなっていく人体のあらゆるパーツを人工的なものと交換し、私たち人類は、先ず不老を手にし、いずれは不死を手にする日が来るのかもしれない。不死というのは非現実的だが、300年くらい生きる人類が誕生するのかもしれない。遠い未来ではないような気がする。
古代エジプトの王たちは不老不死を手に入れる為、水銀を飲んでいたと言われている。時の権力者は不老不死を夢見ていたようである。全ての権力を手にした支配者にとって最後の望みは不老不死だけだったのであろう。それを人工知能AIが可能にしようとしている。
果たして不老不死は幸せなのだろうか。私は中学生から高校生にかけて手塚治虫氏の火の鳥を夢中で読んだ。火の鳥の生き血を飲み、不老不死を手に入れた主人公。心臓にナイフを突き刺しても死なない。ピストルで頭を撃っても死なない。何をどうしても死ぬことはない。100年が過ぎ、1000年が過ぎ、1万年が過ぎ、10万年が過ぎていく。死なない。当時、中学生の私は不死という究極の孤独について考えさせられ、恐ろしさを感じていた。
今年で14作品目となった。人間の根源的なテーマに高校生が挑むところにこそ吹劇の醍醐味がある。テレビはつまらぬことを飽きもせず永遠に垂れ流し続けている。政治家は何がしたいのかもわからない。常套句は国民の為だが、誰一人国民の為と感じている者はいない。世の中白と黒に溢れている。特に大人の世界には鮮やかな色が一つもない、高校生は色鮮やかである。大人が雁字搦めにしなければさえ、高校生の感性は色鮮やかである。目が離せないほどに美しい。
この度の吹劇 第14弾「jupiter 〜人間であることの意味〜」モチーフ曲はホルストの木星よりイギリスの第二国家とも呼ばれている大変有名なあのメロディである。日本では平原綾香さんがアレンジされ歌い上げ、ミリオンセラーとなっている。物語は人工知能AIにより不老不死を手に入れた富裕層の人々。それとは違いありのままを生きる人々。富裕層の人々は不老不死を手に入れたものの、それは悲劇の始まりであることにやがて気付いていく。
私たち人間には終わりがあるからこそ人間である意味がある。
終わりがあるから人を愛す。終わりがあるから想像力を持てる。終わりがあるから人の痛みに寄り添うことができる。何より終わりがあるから“今”この時を全力で生きようとする。終わりは私たちに幸福を与えるものである。
不老不死など必要のないもの。
今を全力で生き切ることに人間が人間であることの意味がある。
そんな思いで、吹劇 第14弾「jupiter 〜人間であることの意味〜」に挑戦しました。吹劇は、あくまでもイメージの世界です。美咲たちの吹劇をご覧になられ、ご自分の人生の終わりについて深く思いを寄せられ今を生きられることの幸せをどうか噛み締めて頂ければ、私ども作り手としましては、この上ない幸せです。
美咲たちは、この定期演奏会を最後にここ市船吹奏楽部から去っていきます。永遠はありません。永遠など必要ありません。
それでは、吹劇 第14弾「jupiter 〜人間であることの意味〜」最後までどうぞごゆっくりご鑑賞ください。
吹劇 第14弾「jupiter 〜人間であることの意味〜」
序曲
ありのまま
管理されゆく人類
あの頃
Hey Siri
全知全能の神 人工知能AI
不老不死
不老不死の悲劇
終わりがあることの意味
愛
宇宙(輪廻)
ご覧にならないと損です!!!
高校生美咲たちの生き様を見てください。
25日 習志野文化ホール 昼公演
チケットまだございます。
是非、市船の吹劇を生でご覧になられてみてください。
以下、産経ニュースからです。
『奈良大学の太田仁教授が、「ブラック部活」について、問題の多さを測る指標「『部活』健康度尺度」を奈良大の太田仁教授(社会学)らが作成し、今月上旬の日本社会心理学会で発表した。太田教授は「渦中にいる顧問や生徒は『これが普通』と思いがち。校長や周囲の関係者が尺度を活用してチェックし、ブラック部活を減らすきっかけになれば」としている。
強豪校ほどブラック化
部活動をめぐっては、特に勝利にこだわる強豪校で、顧問が期待に応えられない部員に罰を与えるなどの問題が起こりやすい。顧問による直接の圧力や暴力だけでなく、チームメートからも責められた生徒が孤立し、精神的に追い詰められる状況も起こっている。
関西の私立女子高のダンス部では2年前、3年生の部員が一時、失踪した。同部は全国大会で毎年入賞する強豪校で、学校の期待も厚く、部専用の練習場所や専属コーチもいた。だが、大会での好成績を求められたコーチが技量不足の部員を指弾し、部員間の関係も悪化。仲間から、なぜできないのかと責められた部員は「死にたい」と思い詰め、下校中に失踪した。錯乱状態で歩き続け、数時間後に発見されたという。
同校の女性養護教諭は「部活を理由にうつになる生徒が毎年、出ている。これが教育とは思えない」と疑問を口にする。
奈良大の太田仁教授は「私立の強豪校は学校や保護者から結果を求められるあまり、ブラック化しやすい」と指摘。また、「勝利至上主義から顧問と部員に絶対的な上下関係が生まれると、部員は過剰に集団への帰属意識を持つようになる。カルト宗教にはまっていく状況に酷似している」と説明する。』
私が先日blogに書いた内容とリンクするものでしたので、考えてみたいと思い掲載させていただきました。
確かに私も述べました。
勝ち続けることにより、本来の目的を見失ない、勝ち続けることそのものが目的となってしまいます。
こうなると、部活動は大変危険なものになってしまいます。
大会の結果は、あくまでも手段であって目的ではありません。
ここを間違ってしまうと勝ち続けることは喜びではなく、実は悲劇の始まりとなってしまいます。
しかし、ここではこの記事に関し、違った見方をしたいと思います。
ここに書かれてある関西の私立女子高校ダンス部の件です。
先ずはここに書かれていることが本当なのか、どうなのかという問題があります。本当だったとしても、そこは当事者にしかわからないデリケートな面が存在することも十分に考えられます。また、ここは高校であるという点。しかも私立高校。入部して来る中学生は、恐らくそのダンス部で活動することを目標に入られたのではないかと思われます。それ相当の覚悟を持って入部されたことと思います。
ここに書かれてあるように実際にあったことなのかもしれません。しかし、ここまでハッキリと言い切った書き方をされると、まるでこの関西の私立高校ダンス部が悪であるかのように私たちは感じとってしまいます。
どうなのでしょう。
勝ち続けている部活動の悲劇の例として挙げられたのでしょうが、私は不適切に思われます。具体的な学校名は載っていませんが、想像がついてしまいます。
こればかりは何とも言えないのではないでしょうか。
当事者にしかわからないことがあります。
それは太田教授とて同じこと。太田教授をはじめとした奈良大学当事者にしかわからない面必ずあるはずです。その面だけを、これでもか、これでもか、と叩かれたら、どうされるのでしょう。あること、ないこと大袈裟に書かれたら、どうされるのでしょう。
太田教授の仰る通りです。私も同感です。強豪校と言われる学校は、その傾向が強いことは事実です。
が、その学校の当事者たちだけにしかわからないことがあるのもまた事実です。
当事者でもないのに、わかったようなことを書くのは危険です。もちろん太田教授は綿密に調べられたのでしょうが。本人にも関係各位にも確認されたのでしょう。
まさか聞いた話で例として挙げていたら…
それでも、もし万が一違っていたら、責任取りますか?
責任取れますか?
と記事を読んでいて思いました。
この私立高校の強豪ダンス部にも言い分はあると思います。
私は、全く反対の見方も必要だと思います。
言葉って危険そのもの。
最後に
ハッキリと言わせていただきます。
勝つことが目的ではありません。
勝つことは手段です。
目的は、生徒一人一人が自分自身を深く見つめることです。
日本中の小学校、中学校、高等学校の部活動全てが、ここだけは間違うべきではない、と私は強く強く主張させていただきます。