台風の影響を受け、本日休校となりました。
大きな被害を受けられた方のご無事と一日も早い復旧を祈るばかりです。


そのような状況の中、私は不謹慎にも
コンクール銀賞という目に見える結果について考えていました。


ふと思い立ち、録画してあった『万引き家族』という映画を観ました。理由もなく、確か大変な話題作だったな、と気軽な気持ちで観ました。


観終わった後にズッシリと重いものがのしかかって来ました。が、決してそれは暗いものではありません。

「人間の尊厳」について深く考えさせられるものでした。

ラストシーンでは万引き家族と国家権力の象徴である警察、児童相談所の相談員との対比が白と黒に分けられたように感じてしまいましたが、それは、それで個人の尊厳を伝えるには、分かり易い表現だったのかもしれません。

いずれにしろ、よく考え抜かれた映画でした。決められた上映時間の中で、ここまで社会問題を凝縮させ、人間の尊厳について深く問題提起される是枝監督の才能に感動致しました。
と私のような者が上目線で言うようなことではありませんでした。


映画の中で、
祖母の初枝(樹木希林)が亡くなり、遺体を家の床下に埋めたことに対して「死体遺棄罪だ」と警察に迫られるシーンで、安藤サクラ演じる柴田信代の台詞が大変印象的でした。

「捨てたんじゃない。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです」


私はかねがね「人間の幸せは人に認められることにある」と言い続けて来ました。一言で言えば「自己肯定感」であり、「自己実現」てす。

自己肯定出来なかった樹木希林演じる初枝。傷付けられたからわかる人の痛み。初枝だけではなく、自己肯定出来なかった人たちが吸い寄せられるように一軒家に集まり擬似家族となる。そこには、私たち人間にとって最も大事なお互いを認め合い、尊重し合う自己肯定があった。目に見える血縁関係の家族、目に見える法律上の結婚により形成された家族とはまるで違う目には見えない家族だが、最も大切な自己肯定という大切な関係で成り立っている家族であった。
そんな思いを抱きました。

物語は皮肉にも目に見える家族へとそれぞれが戻っていきます。世の中が認める目に見えるもの。だが、そこに自己肯定は存在しません。目には見えるが、自己肯定の存在しない家族へ連れ戻されることに、個人の尊厳とは何かを深く考えさせられる終わり方でした。

たとえ血が繋がっていたとしても、法律上認められる関係であったとしても、そこに実質的なものが伴っていないことの悲しみ。目には見えるが、それだけでしかない。そこに自己肯定という温もりはない。それでは個人の尊厳は殺されてしまいます。


国家という枠組みが出来上がった以上、私たちが生きていくには秩序が必要です。秩序は目に見えなければ守ることは出来ません。秩序が空気感であったり、温もりのようなあやふやなものでは守ることは出来ません。それは誰もがわかるハッキリと目に見えるものでなければなりません。しかし、秩序は極めて重要ですが、それ以上に目には見えない大切なものがあります。

個人の尊厳です。

そうわかってはいても、とかく人間とは目に見えるものだけで判断されるものです。


目に見えないものにこそ、私たちが本当に大切にしなければならないものがあると誰もがわかっていながら、目に見えるもので判断し、決め付けていくのが私たち人間でもあります。

この矛盾。
この矛盾の中でもがき苦しんで生きている私たち。






銀賞という結果の顧問が何を叫ぼうが、負け犬の遠吠えと言われても仕方ありませんが、ここにある3年の気持ちを載せたいと思います。
今回の銀賞という結果について3年生に深く考えてもらいました。

市船の3年生美咲たちは、この3年間、ここで何を感じ、何を学び、何が大切であると感じているかを知りたかったからです。








『私達はミーティング部ではありません。吹奏楽という世界で、全国を目指すレベルだからこそ、たくさん悩んでたくさんミーティングします。その中で、変わっていくんだと思います。

1年の時からの夢でした。名古屋に行きたかった。見たことない景色を見たかった。他でもない自分たちの代で。
オーディションしなければ、後悔しないのでしょうか。
オーディションすれば、後悔しないのでしょうか。
オーディションして結果が悪かったら、じゃあオーディションしないで全員で出ればよかったって思うのでしょう。
オーディションして結果が良かったら、やっぱりオーディションして良かったねって思うのでしょう。
じゃあ、オーディションしなくて結果が伴わなかったら?
オーディションすれば良かったって思うのでしょうか?


少なくとも私は、後悔してません。私達は結果を求めたけど、赤ジャで本気で取り組めた日々は、結果じゃなくて必ず私達の財産になっているから。

オーディションするかしないかは問題じゃないと思います。55人が全員胸を張って、これ以上無いくらい頑張れた、と言えるメンバーが乗るべきです。
スキルが伴わない人もいるでしょう。でも先生は、音研でこんなに頑張ってる人を舞台にのせないのは辛い。って仰いました。

そこに先生の優しさを感じましたし、あぁ市船は本当に暖かいなぁって感じました。

美咲たちがマーチングで、全員胸を張って、これ以上無いくらい頑張れた、と言えたのなら、根拠はないけれど、結果が伴うような気がします。
オーディションにするかしないかは最終的には先生と緑ジャが決める事です。
私達赤ジャに出来ることは、やれば出来るってことをマーチングで示すことです。
全力でやり続けた先の結果を、知らなければなりません。』



これは市船だけではなく、どこの高校にもある目には見えない最も大切な部分だと思います。



私はこの文章を目にした時、
金賞よりも大切なものが、ここ市船吹奏楽部にはあると再び確信しました。
美咲たちもここに辿り着いたかと、感慨無量になりました。




学校が存在する意味は
学力を伸ばし偏差値を上げることでも、部活動で結果を出すことでもありません。そんな簡単に目に見えるものが必要なのではありません。

学校は、子どもが自己肯定する所です。

裏を返せば、学校へ行くことで自己肯定出来ないのであれば、無理して学校に行く必要などありません。学校が全てなのではなく、自分自身の自己肯定が全てです。それは自己中心などという低レベルなことではありません。個人の尊厳に関わることです。生きることそのものに直結する最重要事項です。

あくまでも大切なことは一人一人の自己肯定です。








「万引き家族」は、生きることに、個人の尊厳を持つことに、どれだけ自己肯定が関与しているかを説いています。たとえ血が繋がった家族でも自己肯定出来ないのであれば、それは家族ではないと説いています。目に見えるものに縛られるのではなく、目には見えないが、自己肯定出来る人と一緒にいることが必要だと説いています。もちろん、目に見える家族の中で自己肯定出来るに越したことはありません。しかし、誰もがそうなれる訳ではありません。と私は、この映画から感じました。これはあくまでも私の解釈です。


そんな「万引き家族」を観ながら、今回のコンクールの結果から見えて来た美咲たちについて考えた1日でした。