稚拙極まりない教師による教師いじめが問題視されている。


テレビから流れる映像を観て目を疑った。


程度の低い人間が教師をしていることに対し世の批判が集中している。


当然のことである。


私も呆れて物も言えない。




こんなにも精神的に幼い大人が子どもたちに「みんな、仲良くしようね。人をいじめては駄目だよ。」と言っているかと思うと嫌悪感を超え笑ってしまう。

悲劇を通り越し喜劇である。




が、しかしだ。

テレビでは、いつもお出になるコメンテーターが同じことを述べている。「こんな人が学校の先生なんですか?!」「学校って狭い閉鎖された空間だからね。」


そんな中、尾木ママは「教師間のいじめは今に始まったことではありませんね。以前から述べていますようにどこの学校にもあります。私が現職の頃も行われていました。」と述べられていた。




だが、誰一人こう述べられるコメンテーターの方はいらっしゃらなかった。


「これって学校だけの問題ではないでしょう。確かに子ども達にいじめはいけないことだと指導する立場の教師間のいじめは極めて重大な問題ではあるけれど、いじめのない世界ってありますか?」

「ここ◯◯テレビ局でもあるでしょうし、隣の◯◯会社でもあるだろうし、これをご覧になられている視聴者の方々が所属されている所でもあるのではないでしょうか。

いじめ皆無の学校などないだろうし、今こうして私が話している間にもいじめで苦しんでいる方はいらっしゃる。

いじめはいけないではなく、なぜ?私たちはいじめをしてしまうのか、その根本的なことを考えなければならない。

今回の問題も、いじめはいけないと指導する立場の人間がいじめをしていたから悪いのではなく、我々人間社会から消えることのないいじめの正体を考える必要があるのではないのか。」

と、述べられるコメンテーターいない。




私たち人間。

絶えず自分と人を比べている。比べては自分のポジションを確認する。

集団の中で一番下は嫌である。それは誰もが同じ。下にいるより、上の方がいい。かく言う私も下より上がいい。


問題は集団の中で自分が下にいると、感じた時にどうするかだ。


以前にも書いた。


だいたい四つのパターンに分けられる気がする。


自分より上の者の足を引っ張る。悪口を言ったり、弱点や少しでも悪いところを探し攻撃する。いじめへと移行する可能性大。

自分より下の者を探す。これもいじめに移行する可能性大。

努力する。理想形

どうせ自分なんてと開き直り、諦める。.②に移行する可能性あり。怖い。



と考えると、いじめへと移行するものの方が多い。決していじめは特別なことではない。むしろ、いじめがない方が特別と考えた方が妥当である。なかなか③のようにベクトルが自分に向かうことは難しい。なぜなら、私たちは人のせいにした方が楽だからだ。







自己肯定も深く関与している。と考えられる。

親から丸ごと認めてもらえていない。

友人から、周囲から認めてもらえていない。などなど。

自己否定がいじめへと繋がっていくことも十分に考えられる。



特に日本人は自己肯定が低いと言われている。なぜなのだろう。学校教育、家庭、社会そのものの在り方に問題があるのだろうか。











市船吹奏楽部にいじめはない。

トラブルは1年中絶えることはないが、いじめはない。と言い切れる。

なぜ?ないのか?と考えてみた。


いじめとトラブルは紙一重の所はあるが決定的に違う所がある。

いじめは見えにくい。

トラブルは見えやすい。

いじめは見えないゆえに解決策を見出すことが非常に難しい。

トラブルは見えるので解決策を見出せる、

しかし、トラブルは見て見ぬ振りをしていると、いじめに移行する可能性がおおいにある。もしかしたら、最初はいじめではなくトラブルだったが、周囲が見て見ぬ振りをしているうちに見えないいじめへと移行したと考えられる。


ということは私が気付いていないだけで、市船吹奏楽部の中にもいじめは存在するのか??いや、存在していないと思われる。



では、なぜ?市船吹奏楽部にいじめが存在していないと言い切れるのかと言うと、


この十数年の中で培われた市船吹奏楽部の空気感にあると考えられる。それはトラブルに対して見て見ぬ振りをしないという空気感である。

トラブルが起きると、必ずアクションを起こしてくれる生徒がいる。アクションを起こしてくれるので、唯一の解決策である話し合いの方向性を考えることができる。これを日々積み重ねているので、トラブルが起きたら話し合うという空気感が市船吹奏楽部日常の中に流れている。



文句たらたら。不満は絶えない。トラブルも日常茶飯事。だが、大きな問題になる前に必ずアクションを起こす生徒がいつの代にも必ずいた。


ここが大きい。








先日、音巴たちの代のある卒業生が遊びに来てくれた。

その時、進学先での酷いいじめに遭った話を聞いた。

「市船吹奏楽部にいると、こんな世界があったことすら忘れていました。集団に無視され、嫌がらせをされました。夏の頃がピークでした。今はまた別な子からの嫌がらせが半端じゃないんです。でも私は負けません。」とのこと。

話の内容から、その子に対する嫉妬であることは間違いない。つまり、集団の中で下は嫌という私たちの根本から出た①のパターンである。自分よりも上の者を悪く言う。それがいじめへと移行した類いである。

その子は如何に市船吹奏楽部の空気感、環境が大事なものであるかを痛切に感じたという。そう話すのは、この子だけではない。多くの卒業生が異口同音のことを言う。





世の中が異常なのか。

市船吹奏楽部が異常なのか。




私は世の中が異常なのだと考える。



自己肯定に根差した学校教育つくり。


トラブルは話し合いで解決していくと言う強い姿勢を小学校から高校までの間に共に考えていく学校教育こそが必要。いつまでもつまらない偏差値教育などしている場合ではない。



今回の教員間のいじめ問題も、トラブルを見て見ぬ振りする私たち大人の空気感が作り出したものなのだろう。


コメンテーターが偉そうに「教師として恥ずかしいことですね。」などと言っても何も変わらない。今、こうしている間でもいじめは様々な場所で起こっている。



トラブルだらけの市船吹奏楽部。しかし、いじめはない市船吹奏楽部。文科省の方々に見ていただきたい。



集団の中で、私たち人間、一番下は嫌。


少しでも人より上がいい。


妬み嫉みの塊の私たち。

自分の都合最優先の私たち。


だから

「人の不幸は蜜の味」という言葉が生まれた。


①でもなく、

②でもなく、

④でもなく、

どうしたら③へと自分自身にベクトルが向いていくのか、そういう考えのもと、日本の教育を行いたい。



そういう国つくりをしたい。


最も肝心な経済が今以上に発展すると思うのは私だけ?

国の根幹は経済。

金がなければ、国つくりとも言っていられない。

が、自己肯定の多い国民、そして国家の方が経済も発展するのではないのだろうか。



こういう国つくりをしていかない限り、10年後も、50年後も、コメンテーターは同じコメントをしていることであろう。



綺麗事でも、絵に描いた餅でもない。


現に市船吹奏楽部が存在している。